ニュースタイル?
里帰りしてきましたー
と言っても私の実家は車で20分ぐらいの所でして
しかも両親は既に他界してますし
実家はもう無いんですよ
だから正確に言いますと
お盆なんで実家付近を散策してきました!
というのが正解かな
壬生寺

私が生まれ育った所は中京区の壬生(みぶ)という
京都市のど真ん中の町でしてね
実家のすぐ近くには壬生寺というお寺さんがありまして
歴史的に有名な場所とも知らずに子供の頃は
かくれんぼやビー玉をする場所でした
本 堂

何を隠そう、私の出身保育園もここだったんですよ
壬生寺保育園

懐かしいわ・・・
と言ってもほとんど登校拒否してたんで
保育園の思い出はあまりありませんが・・・

現在は千体仏塔と呼ばれてるようですが
50年前の私の子供の頃は百地蔵と呼んでましてね
場所も今と違う場所にあってもっと低い位置にあったので
このお地蔵さんに乗って鬼ごっこなどをしてたんですよ
今から考えたらお地蔵さんを足で踏みつけていたわけですから
バチ当たりなことをしてたもんです
(今回のお参りの時、謝っておきました (^^;)
そしてこの辺りは泣く子も黙る新撰組の壬生駐屯地だったんですよ
壬生屯所跡

幕末は恐ろしい場所だったんでしょうね
旧前川邸

壬生寺
私が子供の頃は殺風景なひなびたお寺さん
というイメージだったんですが
現在はすっかり観光化されて一部入場料をとってましたのでね
びっくりすると共に、変な表現ですが
ひさしぶりに会った旧友がえらい出世していた
という感じでした

そうそう、私が小学生の低学年の頃は
ここで毎週月曜日になると夜店があって
たこ焼き屋さんや綿菓子など露店が出てたんですよ
毎週って、今から考えたらすごいことですよね
この門の前には当時の親友の家があったんですが
現在は跡形もなくマンションになってたのがちょっと寂しかったです。
さてさて、思い出いっぱいの壬生寺を後にして
当時は賑わってた商店街を歩きました

もちろんスーパーなんて無かった時代だったし
お肉屋さん、魚屋さん 靴屋さん お豆腐屋さん
全部対面販売でね、夕方になると買いもんに
おふくろの横について歩くのが好きでした

そして毎日のように遊んでた近所の公園でしてね
今の季節、ラジオ体操はここでやってました
すべり台やブランコの位置は当時と全く変わっていませんでした

お~~~~っと!
なにやら公園の向こうで電車が走ってますね
そうなんです!
今や嵐山観光に欠かせない観光電車
嵐電(京福電鉄)がすぐ近くに走ってたんですよ
当時は赤字路線のオンボロ電車だったんですがね (^^;

ここでちょっと鉄なお話をさせてくださいな
次の写真をよ~くご覧ください。
登り勾配になってるのが確認できますよね。

この勾配、嵐電全線の中でここしかないんですよ
その理由はこの先で交差する山陰線にあるんですがね。

上の赤矢印が山陰線なんですが
高架の上を走ってるのになぜ嵐電も上へ勾配してるのか?
不思議ですよね?
下の写真は嵐電と山陰線が交差している場所なんですが
写真の中央下に嵐電が確認できますね?

これは実は昔は山陰線は高架ではなく地べたを走ってたんですよ。
だから嵐電はその上を走ってたんですが
私が高校生の頃に山陰線の高架工事が始まりましてね
工事を進めながらも現実は地べたを走らなければならない山陰線。
そこで嵐電の高さを山陰線の列車がギリギリ下に走れるぐらい降ろしたんですよ。
そして高架工事が終わって山陰線は上を走るようになって
現在は嵐電は意味もなく上の写真のような
中途半端な高さを走ってる状態になったんです

だから現在も山陰線の柱が変な感じでしょ
これは左の二本の柱の上が最初に完成させた山陰線の高架であって
右は当時地べたを走ってた場所なんですよ。
そしてそのあと、複線になって追加工事になったので
こんな歪な高架橋になってるんです
とは言っても私にとっては全然違う光景がここには残ってましてね・・・
当時の山陰線は単線で蒸気機関車が走ってたんですよ
そして今では考えられないでしょうけど
線路の中も遊び場だったんです。
周りには草花がいっぱい咲いていて
チョウチョや虫がいっぱい飛んでたんです。
線路に耳を当てると遠くに走ってる汽車の音が聞こえるんですよ
まだ汽車は目で確認できないのにね
小さくカタカタと音が聞こえるんですよね
その音を聞いてるのが好きでした。
そして近くまで汽車が来ると
蒸気機関車の運転士さんが汽笛で注意してくれるんです。
そして私も線路から離れ運転士さんに敬礼すると
運転士さんが敬礼してくれるんです。
楽しかったな。
この話は50年前の頃の話です。
現在は当時と比べ物にならないほどスピードもありますし
列車の本数も当時は1時間に1本の時代の話です。
だから今は線路内に入るという行為は絶対にしないでください!
もちろん法律で罰せられますので。

ご覧のように当時と変わらない町並みもあったし
当時には無かったマンションも沢山ありました。

妙に気になったのはコインパーキングがやたら多かったことかな

あの頃とは変わった風景の中に
お地蔵さんだけポツンとあの時代のまま残ってました

実家に帰って親兄弟に会ったわけでもなく
一緒に食事をしたわけでもなく
実家の近所を想い出散策・・・
こういうのも立派な「里帰り」と言ってもいいんじゃないかな !(^^)!
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里帰りしてきましたー

と言っても私の実家は車で20分ぐらいの所でして
しかも両親は既に他界してますし
実家はもう無いんですよ

だから正確に言いますと
お盆なんで実家付近を散策してきました!
というのが正解かな

壬生寺

私が生まれ育った所は中京区の壬生(みぶ)という
京都市のど真ん中の町でしてね
実家のすぐ近くには壬生寺というお寺さんがありまして
歴史的に有名な場所とも知らずに子供の頃は
かくれんぼやビー玉をする場所でした

本 堂

何を隠そう、私の出身保育園もここだったんですよ

壬生寺保育園

懐かしいわ・・・
と言ってもほとんど登校拒否してたんで
保育園の思い出はあまりありませんが・・・


現在は千体仏塔と呼ばれてるようですが
50年前の私の子供の頃は百地蔵と呼んでましてね
場所も今と違う場所にあってもっと低い位置にあったので
このお地蔵さんに乗って鬼ごっこなどをしてたんですよ

今から考えたらお地蔵さんを足で踏みつけていたわけですから
バチ当たりなことをしてたもんです

(今回のお参りの時、謝っておきました (^^;)
そしてこの辺りは泣く子も黙る新撰組の壬生駐屯地だったんですよ

壬生屯所跡

幕末は恐ろしい場所だったんでしょうね

旧前川邸

壬生寺
私が子供の頃は殺風景なひなびたお寺さん
というイメージだったんですが
現在はすっかり観光化されて一部入場料をとってましたのでね
びっくりすると共に、変な表現ですが
ひさしぶりに会った旧友がえらい出世していた
という感じでした


そうそう、私が小学生の低学年の頃は
ここで毎週月曜日になると夜店があって
たこ焼き屋さんや綿菓子など露店が出てたんですよ
毎週って、今から考えたらすごいことですよね

この門の前には当時の親友の家があったんですが
現在は跡形もなくマンションになってたのがちょっと寂しかったです。
さてさて、思い出いっぱいの壬生寺を後にして
当時は賑わってた商店街を歩きました


もちろんスーパーなんて無かった時代だったし
お肉屋さん、魚屋さん 靴屋さん お豆腐屋さん
全部対面販売でね、夕方になると買いもんに
おふくろの横について歩くのが好きでした


そして毎日のように遊んでた近所の公園でしてね
今の季節、ラジオ体操はここでやってました

すべり台やブランコの位置は当時と全く変わっていませんでした


お~~~~っと!
なにやら公園の向こうで電車が走ってますね

そうなんです!
今や嵐山観光に欠かせない観光電車
嵐電(京福電鉄)がすぐ近くに走ってたんですよ

当時は赤字路線のオンボロ電車だったんですがね (^^;

ここでちょっと鉄なお話をさせてくださいな

次の写真をよ~くご覧ください。
登り勾配になってるのが確認できますよね。

この勾配、嵐電全線の中でここしかないんですよ
その理由はこの先で交差する山陰線にあるんですがね。

上の赤矢印が山陰線なんですが
高架の上を走ってるのになぜ嵐電も上へ勾配してるのか?
不思議ですよね?
下の写真は嵐電と山陰線が交差している場所なんですが
写真の中央下に嵐電が確認できますね?

これは実は昔は山陰線は高架ではなく地べたを走ってたんですよ。
だから嵐電はその上を走ってたんですが
私が高校生の頃に山陰線の高架工事が始まりましてね
工事を進めながらも現実は地べたを走らなければならない山陰線。
そこで嵐電の高さを山陰線の列車がギリギリ下に走れるぐらい降ろしたんですよ。
そして高架工事が終わって山陰線は上を走るようになって
現在は嵐電は意味もなく上の写真のような
中途半端な高さを走ってる状態になったんです


だから現在も山陰線の柱が変な感じでしょ
これは左の二本の柱の上が最初に完成させた山陰線の高架であって
右は当時地べたを走ってた場所なんですよ。
そしてそのあと、複線になって追加工事になったので
こんな歪な高架橋になってるんです

とは言っても私にとっては全然違う光景がここには残ってましてね・・・
当時の山陰線は単線で蒸気機関車が走ってたんですよ
そして今では考えられないでしょうけど
線路の中も遊び場だったんです。
周りには草花がいっぱい咲いていて
チョウチョや虫がいっぱい飛んでたんです。
線路に耳を当てると遠くに走ってる汽車の音が聞こえるんですよ
まだ汽車は目で確認できないのにね
小さくカタカタと音が聞こえるんですよね
その音を聞いてるのが好きでした。
そして近くまで汽車が来ると
蒸気機関車の運転士さんが汽笛で注意してくれるんです。
そして私も線路から離れ運転士さんに敬礼すると
運転士さんが敬礼してくれるんです。
楽しかったな。
この話は50年前の頃の話です。
現在は当時と比べ物にならないほどスピードもありますし
列車の本数も当時は1時間に1本の時代の話です。
だから今は線路内に入るという行為は絶対にしないでください!
もちろん法律で罰せられますので。

ご覧のように当時と変わらない町並みもあったし
当時には無かったマンションも沢山ありました。

妙に気になったのはコインパーキングがやたら多かったことかな


あの頃とは変わった風景の中に
お地蔵さんだけポツンとあの時代のまま残ってました


実家に帰って親兄弟に会ったわけでもなく
一緒に食事をしたわけでもなく
実家の近所を想い出散策・・・
こういうのも立派な「里帰り」と言ってもいいんじゃないかな !(^^)!
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